行田の中心市街地を初めて歩く人は、「足袋蔵のまち」と聞いて想像した景色との違いに戸惑うかもしれません。蔵が表通りへ連続して並ぶのではなく、商店や住宅の間の路地をのぞいたとき、奥に土蔵や石蔵が現れるからです。見えにくさは、蔵が失われた結果だけではありません。足袋をつくり、保管し、売るために選ばれた敷地の使い方が関係しています。
行田の足袋蔵は、表通りの景観を整えるためではなく、細長い敷地の奥で商品と原料を守るために建てられました。 その配置を理解すると、足袋蔵は単体の古い建物ではなく、城下町の町割りを近代産業へ転用した証拠に見えてきます。
足袋蔵が見えないことから、行田の町を読み始める
蔵が消えたのではなく、表の店から奥へ続く産業敷地の中にあることを確かめます。
川越の蔵造りの町並みのように、蔵の正面が通りへ連なる像を行田へ当てはめると、足袋蔵を見落とします。行田では多くの蔵が店舗や住宅の後ろに置かれ、裏通りや路地から屋根や壁が見えます。足袋商店にとって表は販売と接客の場所、奥は生産と保管の場所でした。
市と文化庁の日本遺産資料は、忍城下の短冊形敷地を足袋産業の前提として説明します。通りに面する間口が狭く、奥行きが長い敷地の中へ、必要な建物を順番に足せました。表通りだけを歩くのではなく、敷地の奥行きを想像しながら横道へ入ると、産業の町の密度が分かります。
足袋蔵が見えにくいのは、町に少なかったからではなく、産業敷地の一番奥に置かれることが多かったからです。 ただし多くは私有地にあり、内部公開の可否も異なります。公道から見える範囲と公式に公開される建物を分けて歩くことが前提です。
城下町の細長い敷地が、工場の置き場所になった
間口と奥行き、宿場の裏庭と路地が近代産業へ転用された過程をたどります。
近世の行田は忍城の城下町で、館林道・日光脇往還の宿場でもありました。通り沿いの家には馬の世話をする裏庭があり、家々の間には奥へ通じる路地が設けられていました。近代になって馬を置く必要が小さくなると、その空間が新しい仕事場へ変わります。
足袋の生産量が増えると、裏庭に工場と商品倉庫が建てられました。ゼロから工業団地を造成したのではなく、城下・宿場町が持っていた敷地と通路を使ったのです。古い町割りが近代化の障害になっただけではなく、家内仕事を工場生産へ広げる余地になりました。
周辺で採れた綿や藍、城下で培われた縫製技術も産地形成へつながりましたが、地形だけで成功が決まったわけではありません。商店が販路を広げ、生産を分担し、敷地の奥へ設備を追加できたことが重なります。宿場の裏庭は、馬の場所からミシンと商品の場所へ役割を変えました。
表から奥へ、店・中庭・工場・蔵が一列に並ぶ
一軒の足袋商店を、生産・接客・保管が連続する小さな産業拠点として読みます。
典型的な足袋商店では、表から店舗・住宅、接客用の中庭、工場、足袋蔵、屋敷稲荷が列状に並びました。これは建物の様式を統一した配置ではなく、販売、暮らし、生産、保管、安全を一つの敷地で成立させる順番です。
足袋蔵の内部にも商品倉庫としての工夫があります。商品や原料を扱いやすいよう壁面側に柱を配して中央の柱を少なくし、床を高くして床下の通気を確保しました。北西風に備えて壁を厚くし、窓を少なくするなど、防火・防寒を考えた建物もあります。
通りから奥へ入るほど私的な空間になるため、現在の町歩きではすべてを直接確認できるわけではありません。それでも、路地の位置、蔵の屋根、母屋との距離を公道から読むと、商店一軒が小さな生産拠点だった構成が見えます。足袋蔵は商品を置く箱ではなく、店と工場を最後尾で支える設備でした。
大工場に集約しなかったから、多様な蔵が町に残った
のれん分けと独自の販売網が、建物の数と種類を増やした背景を見ます。
行田の足袋産業は、生産量が増えても企業統合だけで巨大化せず、のれん分けによって足袋商店が増えました。文化庁の資料では、最盛期に200社以上の中小規模の足袋商店が共存したとされます。各商店は独自の販売先を開拓し、地域ごとの販路を持ちながら産地全体を形づくりました。
商店が増えるたびに必要になったのが工場と蔵です。足袋蔵は江戸後期から昭和30年代前半まで長期にわたり建てられ、土、石、煉瓦、鉄筋コンクリート、モルタル、木など材料も変化しました。大きさや屋根も統一されません。市のガイド資料が現存約80棟と記す蔵は、一つの完成年代ではなく、100年以上の技術と商いの変化を並べた群れです。
昭和13~14年には全国の約8割を生産したとされますが、これは最盛期の数字です。現在の生産比率として使ってはいけません。一方、行田で足袋生産が続いていることも事実です。多様な足袋蔵は、産業が大企業一社へ集約されなかった行田の経営構造まで伝えます。
裏通りの産業遺産を、歩ける中心市街地へつなぐ
保存と生産を過去形にせず、再利用と現在の駅周辺整備までを一続きに捉えます。
足袋の需要が変わり、役割を終えた工場や蔵もあります。建物を残すには修繕だけでなく、次の用途が必要です。行田では旧工場や事務所兼住宅を工房・交流空間等へ転用する例があり、足袋産業の歴史を学ぶ場所にもなっています。ただし、すべての蔵が公開施設ではありません。
現在の秩父鉄道行田市駅周辺地区では、歩道と車道の再配分、ベンチ等の滞在空間、足袋蔵などの歴史資源を生かした歩行者空間が計画されています。表通りの移動を安全にしながら、裏通りに点在する産業遺産へ視線を導く試みです。